『赤い花白い花』誕生の話



1960年代の初め頃、ひとりの女の子が
群馬県山田郡毛里田村(現在の群馬県太田市)の
田舎道を散歩しながら「♪あーかいはーなーつーんーでー」と
口ずさんでいました。
その当時の日本でこの曲を歌っていたのは、
その女の子ただひとりでした。
そうです。その女の子こそが『赤い花白い花』を
作った中林三恵さん(当時 遠藤三恵さん)です。
御本人さまの話では、その当時は『草原情歌』が好きで、
『赤い花白い花』はその影響があるかも知れないとの事です。

その後、中林三恵さんは群馬大学に進学されて、
1964年秋に大学で「クラブ対抗コーラス大会」が行われ、
その大会で中林三恵さんの所属する美術部で
『赤い花白い花』を歌った処、
その曲が群馬大学の学生の間に広まったんだそうです。
やがて『赤い花白い花』は、群馬大学の学生を通じて
人から人へと伝えられ、数年後には北海道へとたどり着きます。
以前このページでは
「赤い鳥」のメンバーは北海道の歌声喫茶で
『赤い花白い花』を知ったと書いたのですが、
この事は1994年10月にNHKラジオ第1の
「あいうえ歌謡曲」という番組で長田暁二さんが
おっしゃっていた事です。その時の放送の模様は録音してあって
「You Tube」に投稿しています。
このページにも「埋め込みコード」を使って貼り付けています。
ところがその後、中林三恵さんよりいただいた
1977年6月20日付の「うたごえ新聞」という新聞のコピーには
後藤悦治郎さんの『赤い花白い花』に対する談話が
掲載されており、そこには
「帯広で旅行者が歌っていたのを
後藤悦治郎さんの友人が聴いて、
それを後藤悦治郎さんに教えた」と書いてあります。
この両者の話は違いますが、
こういう場合後藤悦治郎さんの談話の方が
具体的で説得力がありますよね。
でも、長田暁二さんも音楽業界では著名な方で、
きちんと「赤い鳥」のメンバーに取材をした上での発言だと思うのです。
いずれにせよ、この様な経緯があって
「赤い鳥」のメンバーに『赤い花白い花』が伝わったわけです。
当初「赤い鳥」のメンバーは、その曲が誰の作品なのか、
わからなかったそうですが、1969年10月に
毎日放送ラジオ「MBS ヤングタウン」という番組の
「今月のうた」で採用すると同時に「作者を知っていますか?」と
全国に呼びかけたのだそうです。
そしてその放送を、群馬大学の学生の高溝久明さん
という方が聴いて、同年11月にその事を中林三恵さんに手紙で伝え、
ようやく中林三恵さんの作品である事がハッキリしたの事です。
(当ページに高溝久明さんの御名前を載せる事は御本人の許可を得ています。)
そして1970年(昭和45年)に「赤い鳥」がシングルのB面で
レコード化し、全国的に知られる様になったのです。

そして1976年(昭和51年)12月には「NHK みんなのうた」で
「ビッキーズ」というデュオが歌った事により、
更に様々な人に知られる様になります。

そして更に1977年(昭和52年)に
芹洋子さんがシングルのA面でレコード化しました。
その芹洋子さんの『赤い花白い花』には
  ♪赤い花ゆれる あの娘の髪に
  ♪やさしい人の ほほえみにゆれる
  ♪白い花ゆれる あの人の胸に
  ♪いとしい人の 口づけにゆれる
  ♪口づけにゆれる
という3番の歌詞があります。
これは、芹洋子さん側の依頼を受けて中林三恵さんが
自ら作ったそうです。

ちなみに、これまでに『赤い花白い花』をレコード・CD化した方々は
「赤い鳥」「紙ふうせん」「ハイファイセット」「山本潤子」
「やまがたすみこ」「五つの赤い風船」「ビッキーズ」「芹洋子」
「チェリッシュ」「ダ・カーポ」「ル・クプル」「神崎みゆき」「森みゆき」
「sarah」「夢慧(ゆめさと)」「木村弓」「日比啓子」「鈴木愛」「湯川潮音」「早見沙織」です。
他にもいるかも知れません。

現在、中林三恵さんは群馬県前橋市で版画を御職業にしながら
御趣味で曲作りもしていらっしゃいます。
その中林三恵さんが自らホームページを
開設していらっしゃいますので皆さん見に行ってみてください。



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